雪になりたい椿の日記

雪になりたい椿の日記です

#65

 最近のブログは『①下書きにメモ書きする②ある程度メモがたまったら推敲する③公開する』というスタイルで更新しているのだけど、この①と②の間には結構タイムラグがあって、②の手順を踏むころには「別に公開しなくていいかな…」という気持ちになり下書きを削除してしまうことが多々ある。書くだけで満足してしまう。実際、頭の整理ということだけを考えるのなら書くだけで十分ではある。だけど、やっぱり書いたものを「自分だけが読む」のと「他人も読む」のとでは心に起こる変化に違いがある(どちらの変化も大切でそこに優劣はない)。心の柔軟性を保とうと思ったら、自分一人で書いて読んでいるだけでは不十分なのだ。どれだけ一人に慣れていても、この社会動物として設計された脳や神経はどうしようもなく他者の存在を必要としている。

 愛、は器の大きな言葉。なんでも入る箱のような。何もかもを映す鏡のような言葉。誰でも口にすることができるけど使い手の“人間”が試される言葉。愛、という言葉に深みと説得力を感じるのは、それが美輪さんの口から語られる言葉だからだろう。ご冥福をお祈りいたします。

#64

 友人の結婚式に参列した。場所は渋谷と原宿の間にあるお洒落なホテル。良い式だったな。二次会(一次会?)も渋谷でやって、みんなベロンベロンに酔っ払って、さあ二軒目に行こう、というところで僕は帰ることにした。一人だけ都外住みで翌日も仕事だったから。みんなに手を振り、駅へ向かって歩きだそうとしたら、本日の主役である友人(新郎)が着いてきてわざわざ送ってくれた。良いやつだな。湿っぽい話をしながら夜の渋谷を歩き、改札前でハグをして別れた。本当におめでとう。末永くお幸せに。

 結婚式の翌日。各々が撮影した写真をLINEのアルバムで共有した。良い写真ばかりだ。本当に良い式だった。しかし…他人の撮った自分というのはどうしてこんなに不細工なのか。みんなはちゃんと人間の顔をしているのに、自分だけ「たまたま顔のような皺ができた野菜」みたいに見える。自分の顔だからそう思うのだろうけど。表情筋もっと鍛えないとな。

 結婚願望はないけど、結婚できるような(結婚をしても良いと思えるような)人生を送れることは羨ましく思う。

#63

 帰り道、前を歩く女性のハンチング帽から洗濯表示の白いタグがはみだしていた。被るときに引っかかって偶然外へでてしまったのだろう。「いや、でも…」と思い直し、ハンチング帽の女性がいなくなった後でネット検索した。タグをわざと外へだすことで、その帽子が新品であることを示す文化は…特になかった。流石にそうか。その昔、ニューエラのキャップのシールを剥がして被って出かけたら、一緒にいた女の子に『なんで剥がしたの?』と笑われた。とても恥ずかった。あの金ピカのシールは剥がさないほうが良いらしい。知らなかった。そして知ってもあまり納得できなかった。今もあまりピンときていない。ダサくない、あのシール…。あのシールを貼る文化があるんだから、洗濯表示のタグを外へだす文化だってあり得る。同じくらいダサいから。洗濯のタグと変わらないよ、そのシール。ピカピカしてて。むしろタグのほうが控えめでダサさも控えめかもね。…と、記憶のなかの女の子へむかって捲し立ててしまう。本当に恥ずかしかったから。でもいくら記憶に向かって捲し立てても恥ずかしい思い出はなかったことにならない。あの時の女の子、教えてくれてありがとうね。

 雨の後、湿度の高い夕方、茂みに咲く紫陽花を見て色が光であることを思い出す。

 5月は読書の調子がよかった。6月は少し調子を落として、長いものが読めず、最近は短編ばかりを読んでいる。昨日は久しぶりにシュペルヴィエルの『海に住む少女』を読んだ。形容しがたい悲しみ。けど人生のどこかで確かに目にしたことのある悲しみ。過去の景色を思い出す。悲しい景色。どこへも行けず、華の十代を徒花として過ごした時間。取り返せるなら取り返したい。自分をそこから連れ出してあげたい。でも悲しみに行き場なんてないのだ。シュペルヴィエルの作品を読むとそんな気持ちになる。

『心の声は誰が聞くこともない それもいい その方がいい』そんなヒットソングの歌詞を聴いて涙をおとす夜。

#62

 話題の吉本ばななのnoteを読んで…ない。吉本ばななは初期作品しか読んだことがない。読書家の方達の話からすると、自分のこの状態が一番良いのかもしれない。もともと執筆された小説そのものに興味はあっても、それを書いた人間にはあまり興味を持てない質なので、話題のnoteもこのまま読まずに済みそう。毒親や共依存の話題には興味があるけど…それについては自分も吉本ばななさんも素人だろうし、読んだところでなんにもならないだろう。なにより『キッチン』や『TSUGUMI』の読書体験に余計な色を落としたくない。

 普通とは“ありふれている”ということで、ありふれているものは社会から理解されやすく、人に対して説明も通りやすい。“普通になりたい”は“理解されたい”なのかもしれない。社会に理解されたい。あなたに伝わるような説明がしたい。普通の人間になってこの理解の海に加わりたい。

 先日、生まれて初めてクレジットカードを作ったので(遅い)クレカを使っていろいろ気になっていたサービスを利用しはじめたところ。モバイルSuicaって便利だな(遅い)。いちいち現金を下ろして券売機でチャージしなくて良いなんて(遅い)。スマホでタッチするだけで改札を通れるのもすごい(遅い)。「みんなこんなに便利な思いをしていたんだな」と思う。人生そんなことばかりで悔しく恨めしいけど、何歳になってもできてしまえば「まあいいよ許す」という気持ちになれる(なれないものも当然ある)。死ぬまでにあといくつ許せるかな。

#61

 あっという間に前回の更新から3ヶ月が経過した。特に書く気がなかった訳ではないけれど、強いて書こうとする気持ちもなかった。無理に書くものではないから難しいけど、やっぱりコンスタントに書けたらそれが一番良い。自分の内面について話す場が他にほとんどないから、長い間ブログを書かずにいると息が詰まるような気持ちになってくる。何か、ブログのスタイルを変えなければいけないのかもしれないな。

 

 ふと思いついて、昼食に用意した炒飯の上に、前日の余りのカレーをかけてみた。カツとカレーの相乗効果のように美味しさが増すかもしれないと思った。そんな自分に少し感動した。世間一般の人からすれば「何が?」という話かもしれないけど、過干渉な親の下で育った自分にとって、些細な思いつきを行動に起こすことのハードルはとてつもなく高かった。たかが炒飯にカレーをかけるだけのことだけど、前の自分なら思いついても実行に移せなかっただろう。嬉しい。呪いは着実に薄まっている。ちなみにそうして完成した“カレー炒飯”はあまり美味しくなかった。炒飯にカレーをかけてもただのカレーライスにしかならないことがわかった。勉強になりました。

 

 過去。全ての人間が持っているもの。「自分には何もない」と思えば思うほど強く自分に関係してくるもの。「過去なんて関係ないですよ」と言えるのは過去に代わる何かを持っているからだろう。「過去のことは忘れましょう」という言葉には「お前の過去なんて大したことない」というルビが振られているように感じる。そんなふうにネガティブに考えてしまうのは抑圧された憎しみのせいだろうか。思えばこの段落は、初めからどことなく恨みがましい。余白から憎しみが滲みでているような。こういう時、自分は本当に父や祖母に似ているなと思う。

#60

 久しぶりの雨に濡れた路面に椿の花が落ちていた。落ちた花には申し訳ないけど、濡れたアスファルトの黒に生々しい赤と白の花びらはよく映えていて、綺麗だった。もしここでカメラを構えたら…最近再開したインスタの、何も設定していないプロフィール画面に椿が追加されることを空想する。空想している間にも信号は青へ変わり、乗っていたバスは十字路を駅のほうへ左折して行った。明日もこの道は通るけど、もう撮る気にはならないだろう。

 インスタでは、春を心待ちにする人たちの投稿をよく眺めている。春の光を受ける桜のハレーションを見つめていると心拍数が上がる。好きとは「影響されたい」という感情で、嫌いとは「影響されたくない」という感情だと最近は思う。花が好き。花のもつ意味ではなくその生き死にする様、姿が好き。花のように四季に影響されて生き、死んでしまいたい。

#59

 寂しい夢ばかり見る。目が覚めたときに寂しくなる夢。睡眠学者の柳沢先生が、「人は悪夢を見ることでストレス耐性を身につける、悪夢を通して未来に起こるかもしれない出来事の予行演習をしている」と話していた。その線で考えるなら、この脳は寂しさの予行演習をしていることになる。「もう散々寂しい思いはしてきたから」と言葉では考えていても、本当はまだ寂しいことが怖いのだろうか。「心とは、言ってしまえば脳機能だから、年齢が上がるにつれて身体機能が衰えていくのと同じように心(感情)のコントロールも難しくなっていく」と心理士の先生も言っていた。寂しい夢はこれから増えていく一方なのかもしれない。

 昨夜は大学時代の夢を見た。とは言っても、夢の中の自分が歩いていたのは現実に通っていたキャンパスではなくて、過去に訪れたことのある他の場所(たぶん上野の博物館の近く)だった。僕は所属しているゼミの研究室へ向かうところで、コピーした資料を抱えて銀杏並木の黄色い道を歩いていた。街の灯りからして夕方だった。その光景はとても幸せそうで、やっぱり寂しかった。