雪になりたい椿の日記

雪になりたい椿の日記です

#33

 昨日は休みだった。疲れていたから午前中は何もせず椅子に座ってぼーっとしていた。午後になって少し回復してきたからNetflixで映画『愛がなんだ』を観た。

(以下ネタバレを含む)

 コンビニの前でテルコと仲原君が会話するシーン。あそこの脚本すごいな。よくあんなふうに書けるな。角田光代の小説が原作のようだけど、原作ではどう描かれているのだろう。

 自分を客観視するには他人+痛みが必要なのだなと思った。仲原君と葉子にはそれがあった…他人からの容赦ない指摘と、それに傷つき心を痛める時間が二人にはあったと思う。でもテルコとマモルにはそれが無さそうに見えた。他人からの指摘を受けとめて、でもそれを傷つかないような解釈に落としこんでしまった。だから二人の関係は変わらなかった。変わらなかった、でもそれがなんだ…という映画だったのかな。よくわからない。エンドロールが終わって最初に浮かんだ感想は、『これってどういう映画なんだろう』だった。

(ネタバレ終わり)

 去年のいつ頃だったか、たぶん夏の放送回だったと思うけど、日曜日の朝にやってる『遠くへ行きたい』という旅番組のなかで、綿谷りさが「この旅の経験が言葉になるのは今日や明日ではなく数年後」という話をしていた。他の小説家も似たようなことを言っていた。村上春樹は「頭の回転の遅い人のほうが小説家に向いている」と言っていた。小説家はよくそういうことを言う。小説家たちのそういう、時間の流れを信頼して身を任せきっているような、ゆっくりゆったりした生き方や考え方が好き。

 昨日観た『愛がなんだ』の感想も、昨日や今日ではなくて、何日も何ヶ月もたったある日、ふいにまた言葉になるのかもしれない。多くの時間を含んだ言葉は深みを増すし、重みも増す。そういう言葉をたくさん抱えて生きたい。そのほうが自分自身も安定する気がする。重しみたいに言葉を自分の底に沈めて敷き詰めたい。