雪になりたい椿の日記

雪になりたい椿の日記です

#20

 自分の生活を明かしたくないから、ブログには具体的な生活のエピソードをほとんど書けないんだけど、そうすると抽象的な内面の暴露に終始してしまって、書きながら「こんなもの他人様にお見せする必要ないじゃん」と思って、下書きの段階で書くのをやめてしまう。タイトルにナンバリングをし始めてこれが20回目だけど、そういうことを気にせず書いたものをどんどん公開していたら、今頃#50くらいにはなっていたと思う。こんなもの他人様にお見せする必要が…なんて考えたら、必要のあるブログなど一つもないから、本当はそんなこと考えないほうがいいんだけどな。

 他人のブログを見てみると、日記タイプのブログには、やっぱり日常生活のエピソードが具体的に書かれている。実話なのかフィクションなのかはわからないけど、実話なのだとしたらすごいなと思う。毎日なにかしていてすごい。毎日誰かと会話していてすごい。ブログに書けないような後ろめたい生活をしていなくてすごい。いや。僕もべつに本当に後ろめたい生活を送っているわけではないんだけど。ただただ自分で自分の生活を後ろめたいと思っている。ある種の未成熟さ。現実を受け入れられない。もう28なのにな。

#19

 みんな恋愛の話をしている。恋愛をしない人は恋人がほしいけどできないと嘆いている。自分はそこから一歩ひいた位置にいるつもりでいたけど、本当に一歩ひいた位置にいるのか、この頃は疑問に思う。自分は平均以下の人間だけど感性は平凡だから、本当は平凡に「恋人がほしい」と思っているんじゃないか。それでよくよく考えたり掘り下げたりした末、自分は「恋人関係」はほしくないけど「出会い」はもとめているかもしれないなと思った。それが恋人であろうとなんであろうと、人間関係が増えてしまうのは億劫だから可能なかぎり避けたいけど、誰かと出会うことで自分が変化できるならそれは歓迎する。そう思ってるかもしれない。受身で消極的な性格が表れている。というより、そもそも恋人がいたことがないから恋人関係を想像できなくて、想像できないからほしいと思えないだけかもしれない。

 自分の望む生活は、仕事帰りに気ままに買い物ができたり、休日には図書室の利用と散歩ができたり、そういう生活だ。それだけだ。海外旅行がしたいとか、いい車でドライブがしたいとか、飲んで遊んで暮らしたいとか、そんなことは望んでない。いまのところはだけど。ふらっとコンビニへ行く、みたいなことがしたい。家のなかでは気を抜いて過ごしたい。自分の意思と責任のもとでトライアンドエラーを繰り返したい。おもしろいと思ったら笑いたい。いまはそれができない。

#18

 湿気は嫌いだけど雨は好きだから、今年の梅雨がもう明けてしまいそうなことが悲しい。雨が好きなのは来客や外出の機会が減るから。部屋にこもっていられる。窓の外をながめても隣近所や表の道を行く人と目があう危険が減る。僕は水土休みだから水土はいつも雨が降っていてほしい。晴れていると落ち着かない。誰かが訪ねてきそうで安心できない。外出する用事ができそうで気を抜けない。雨が降ってほしい。休日はいつも雨であってほしい。

 上司に「痩せた?」と言われた。先月会った友だちにも「痩せた?」と言われた。痩せた。半年で10キロ落ちた。生活が変わったからだ。痩せたのはいいけど筋肉も落ちて貧相になったから、筋肉をつけるために休日に筋トレをするようになった。食事にも気をつけて疲労がたまらないようにする。すこしずつ筋肉がついてきた。順調だ。と思った矢先、足の裏に魚の目ができた。魚の目はタコみたいなもので、硬化した角質が三角錐のような形になり皮膚の下に伸びてしまう。ずっと足の裏に棘が刺さっているようなものだ。魚の目という名前の由来はそのタコの見た目が魚の目に似ているから。足に負荷をかけ過ぎたのが原因だと思う。足のトレーニングと有酸素運動ができなくなった。調べたところ魚の目は自然治癒が不可能らしい。でも病院には行きたくない。ピンセットを使って自力で魚の目を引きちぎった。すこし怖かった。足の裏に小さな穴があいた。それで痛みはなくなったけど完治したかどうかはわからない。『下手に自分で除去すると深刻化します』と皮膚科のホームページに書いてあったから悪化するかもしれない。人生、いつもこういうことをしている気がする。

#17

 頭のなかは、いつも他人の顔や声が飛び交っていて、それに対していちいち反論していて、うるさい。他人の顔や声はどれも自分にたいして批判的だ。重箱の隅をつつくようなことを言う。自分のなかの他人のイメージがそうなんだろう。他人は自分のことを憎んでいる。存在自体が気にくわないから、常に批判の機会をうかがっている。もちろん思いこみだと思う。他人を悪いように内面化しているんだと思う。父親の影響が大きい。父は常に誰かを責めている。ずっと怒っていて機嫌が悪い。必ずルールや正義を盾にして他人を責めるのでたちが悪い。ルールやマナーは守るが、モラルがない人で、支配的。父を内面化してしまったのが大きい。どこにいても父がいる。ずっと父に監視されているようで気が抜けない。自覚してからはますます苦しくなった。思いこみや内面化はどうやって克服すればいいんだろう。父は、僕が父を内面化していることを、やめてほしくないだろう。そう想像してしまって解決への行動もままならない。こういうことを書いているあいだにも想像上の父にずっと責められている。思考が断続的。内面化した父を排除したい。道のりは長く険しい。

 自尊心なんてあったものじゃない。尊ぶべき自分が見つからない。他人を内面化している、他人は自分を憎んでいる、という思いこみは結局、自分が自分を憎んでいるんだよね。という考えなくても出せる結論に語彙が奪われる。「だからなんだ」という役に立たない真実。自分が自分を憎んでいるのはどうしてなのか。人間が自分一人で自分を憎むことはできない。そこには必ず他人の存在がある。誰か、自分を理不尽に責めたり憎んだりする他人が身近にいたんだろうね。だからなんだ。楽しく、他人を気にせずに生きていられたらそれが一番いいけど、実際そういう精神状態ではない。嘘はつけない。本当はそう感じていないのに、自分は恵まれてる、いまの環境に感謝、人生前向きに、他人なんて気にしない、と嘘に嘘をかさねて自分を圧迫してしまったら、いつか最悪の形で潰れるか爆発すると思う。不真面目でいいんだ、テキトーでいいんだ、というお利口な答えを真面目に答えるたびに、亀裂が入るような自己嫌悪をする。

#16

 ラジオからクラシック音楽がながれてきた。ベルリオーズのラコッツィ行進曲。全く知らない曲だった。なんとなく聴いていたら、突然、6年前まで暮らしていた街の景色が思い出された。銀杏並木の坂の途中にある横道。団地の裏手にある道で、道の片側は団地のフェンスで、もう片側は駐車場だった。駐車場のさきは覚えていない。緑が多く、道の奥は木陰になって見通せなかった。それだけの景色だ。特に思い入れもエピソードもない。クラシック音楽とも関係ない。どうして思い出したのかわからない。わからないけど、思い出したら大切な景色だったような気がしてきた。ラコッツィ行進曲はいい曲だった。

 怒りすぎて頭痛がする。口にだして怒ったわけじゃなく、頭のなかで延々と絶叫していた。自分も他人も憎くて仕方ない。怒りがおさまらない。その怒りを口や行動に移せる日がきそうにない。自殺なんてしなくても怒りで自分を殺せる気がする。

#15

 生まれてはじめて図書館に行った。本が好きなのに今まで一度も行ったことがなかった。許可なく勝手に出入りしてよい場所なのか、わからなかったから。勝手に出入りしてよい場所みたいだった。

 入ってすぐに文芸のフロアがあった。上にも横にも広くて、清潔で年季の入った棚がたくさんあった。人がたくさんいるのに静かだった。その光景だけで胸がいっぱいになった。

 文庫の棚から乙一の『ZOO』を手にとった。乙一は中学生のころ夢中になって読んだ作家で、もちろん『ZOO』も読んだことがある。近くの椅子に座って読んだ。強烈に懐かしくて、大人の目をもって読むと新鮮にうつる箇所も多々あった。十数年ぶりに夢中になった。一度も顔をあげずに最初から最後まで読んだ。

 夕方になったから図書館をでた。ガラスばりの図書館と併設されたドトールの灯りが後ろ髪をひいた。図書館のまわりは住宅街だった。どうしてここが自分の街でないのだろう、と思う。そういう自己否定も、歩く速度とおなじでゆっくりしていた。いい帰り道だった。

 図書館のある街を離れ、電車に乗って、自分の暮らす田舎へもどった。そういえば子どものころは図書館のある街に暮らしていて、広々として清潔な公共施設の匂いや静けさが好きだったと思いだす。帰りたくて帰りたくてたまらなくなった。この人生では帰ることのできない場所に、帰りたくなった。

#14

 深部体温を下げると寝付きがよくなり睡眠の質も向上すると知って、いろいろ試行錯誤した結果、前よりよく眠れるようになった。試行錯誤を通して、睡眠だけでなく、さまざまなシーンで自分が体を温めすぎていたことに気づく。数年前、自分が“冷え”にたいして無頓着であったことに気がついて、体を温めるよう心がけたら驚くほど体調がよくなった、という経験があったから、まさか、今度は反対に体を温めすぎていたなんて思いもよらなかった。暑い寒いを問わずとにかく体温調節が下手らしい。体温に無頓着なのか。そういえば、衣替えも自分の肌感覚というより街行く人の服装に合わせて行っているところがある。そんなところでも自分のことが自分でわからないのだな、とすこし深刻に考えたりする。

 なにもかも色褪せて感じる。楽しかったことが楽しくない。生活することが上手になってきているのに、肝心の、生活の目的…なんのために生活しているのか、がまたわからなくなってきた。生きているだけでいいとは思えない。元気に暮らしているだけで充分だとは思えない。そうなるとそもそも自分は元気なのかということも疑わしく思えてくる。なにが欠けているせいで、こんなに虚しいのだろう。気持ちを探って、また過去ばかり見てしまう。後悔は感情より行動に近いと思う。

 なんとなくこういうことを書いたほうがいいのだろう、ああいうことを書くのは求められていないのだろう、と考える。それで前は落ちこむことが多くて、だんだんと落ちこむ代わりに腹が立つようになって、最近やっと楽しめるようになってきた。多分。リアルでは厳しいけど電子空間では気まぐれでいたいな。